親の囲いが、対象を遮断し、活力を衰弱させる。

本来、対象と同化する過程は、まず、赤ん坊が母親に同化し、成長するにつれて家族や仲間へと同一化の対象を広げ、彼ら=目の前の対象を通じて少しずつ言葉や規範などの社会そのものを獲得していきます。

 

 

しかし、仲間やみんな(社会)に収束せず(orできず)に、親(の期待)に収束し続ける若者も増えています。

対象同一性を失った多くの若者は適応欠乏⇒潜在思念にしたがって仲間⇒みんなへと同化し、対象の獲得を試みるのですが、

乳幼児期に親和不全が生じた場合はひたすら母親に同化収束します。

 

>乳幼児期の母親との親和充足(笑顔の交信やスキンシップによる安心感)が人格形成上決定的に重要であるにもかかわらず、スキンシップが充分できていない場合、子供は親和不全(怯えに近い不安)に陥る。しかし、赤ん坊にとって母親は絶対存在であるため、親和が得られないのは「自分が悪い」からだと自己攻撃し、己の欲望や期待を封鎖して、母親から与えられる規範観念(「ああしなさい、こうしなさい」「それしちゃダメ」etc、母親にとって都合のいい「いい子」)にひたすら収束する。

 

このように母親への同化収束力が強すぎるために母親以外は同一化の対象にはなり得ず、仲間圧力=同化圧力も表層的だけでやり過ごしてしまうようです。

 

しかし、'90年以降、対象を失った彼らの親たちにひたすら同化しても当然答えはなく、中身(=対象)のない親の囲いに幽閉されたまま、全く活力の出ない存在となるのは必然です。親以外は表層でやり過ごしてきたが故に、仕事や人間関係といった現実の圧力に耐え切れず(同一化できず)、活力が出ない=(対象のない)親の期待に応えられない自分を攻撃し、鬱やひきこもり、体調不良などの肉体不全で文字通り身動きできなくなる若者も増えています。

 

しかし、そのままでは一向に前へは進み出せません。

 

本来は同化の対象である親や仲間や社会も、自分を脅かすマイナス対象でしかなくなってしまっていると思う。しかし、そうやって否定視しているだけでは何も始まらない。だからこそ、そのままでは変わらない現実を受け止め、ひたすら対象を注視し続け、対象をとにかく掴もうとし続けた結果、目に映っている否定的な対象の背後に、肯定できる存在=充足可能性を見出すことができるのである。

 

何かに対して否定的になっている時、それと同じような事をやる必要があるのではないか。「嫌い」「怖い」「イヤ」など、否定的に映る場面は僕たちの周りに無数に存在している。しかし、否定視は物事をそれ以上見えなくさせる。

 

たとえば、悩みを抱えている時。悩みがある時に、「自分はダメなんだ」と自己攻撃している人は多いが、何がダメなのかという部分は非常にあいまいで抽象的だ。「自分はダメ」と思うことで、それ以上現実を見ないようにしてしまう。思考がそこで止まってしまう。これではうまくいかなくて当然だ。

 

否定的になっている部分、そこを注視し、その背後にある相手の気持ちや社会の構造を掴みとっていくことが必要なんだろう。うまくいかないなら何がダメなのか、何でダメなのか、それがわかればこれからどうしていけばいいのかと、問題を注視して考えつづければ、必然的に問題は具体的になっていく。そうやってどんどん考えていき、本質をつかんでいこうとすれば、単なる「うまくいかない」から「こうすればいい」と、結果的に問題を肯定的に捉える視点にまで行き着く。